デイジー川嶋の新世紀シネマエッセイ
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vol.039  2004.4.23更新

 ♪春なのにぃ、お別れですかぁ。そう、春はお別れのシーズンなのです。卒業生を送り出す時の爽やかな切ない涙。いいですねぇ。入学式の緊張した笑顔もいいですねぇ。成人式の華やかな笑顔もいいですねぇ。が、しかし、お、俺にはなかった。なぜ、なかったのだ。大学受験に失敗したからだ(ほっとけ)。高校の卒業式は二次募集の受験中だったために欠席した。成人式も浪人中のために欠席だった。だから俺には爽やかな切ない涙も写真も思い出もないのだ。
同級生たちは「そうだったっけ?」と言う。そう、所詮そんなもんだ。誰も俺のことなんか気にかけていなかった。みんな自分のことしか考えていないんだ。「どうせ、わだっきゃ…(泣くなよ)」。今考えて、そんな思い出がなくても特別に人生が大きく変わるワケじゃない。でもこのトシになると、微笑ましくも羨ましくなって来る(羨ましいんじゃないかっ)。「青い春」と書いて「青春」と読む。その心は…青い春(ん〜。意味がないっ)。

 青春とは、振り返れば、ほろ苦い赤面するような時期のことだ(それじゃあ赤春だ)。「死ぬまで青春だ」と言った奴がいたが、それじゃあ死ぬまで子供だってこと。「青春とは何だ」青春とは、青い春だ(もうエエッ中年)。真面目に書くと「美しい時間」のことだ。涙も笑顔も身体も精神も肉体も頭脳も足の裏も腋の下の匂いも、全てが美しい。そんなことを考えていたら(頭が春?)、ある2本の青春映画に出逢った。
本格的なDVD時代が到来して、俺のライブラリーも200枚を越えた。何度でも観たい映画から、一回しか観ていない映画、観ることなく置き去りにされた映画も含めて、画像・音声と携帯性に優れたソフトを身近に置きたいという単なる自己満足だが、自分では絶対に買わないだろうという古い映画のDVDを友人から借りた。気分を集中させて観たら、予備知識もなくハマってしまった。

 「女学生ゲリラ」(足立正生監督/芦川絵理主演/1969年/若松プロ)と「白い指の戯れ」(村川透監督/荒木一郎+伊佐山ひろ子主演/1972年/日活)だ。題名は知っていたが、現実にその頃はまだ小学生。観たことのない伝説の名作だった。
ロマンポルノやピンク映画と言われる類いの映画を数多く観て来たが、年代的にはかなり後半の1980年代に入ってからだ。この手の映画は全てがビデオ・DVD化されているワケではなく、またその数も膨大だ。初めて観る和製ポルノ映画の初期の頃の内容のカゲキさに驚いた。内容が性的欲望のためではなく、若者たちの青春期における精神的・社会的な飢餓感がビンビン伝わって来るのだ。音楽やファッションなどその頃の時代の独特な匂いが全篇に映し出されていて、その感受性にいたく感激した。

 その宣伝用の解説を引用する。「女学生ゲリラ」は「卒業式粉砕をたくらむ女学生達を描いたアヴァンギャルド・ムービー!若松プロが急速に政治的ボルテージを高めた時期に生まれたポップでクレイジーな逸品で、監督は後に政治活動に傾倒し投獄された伝説的監督・足立正生。自衛隊を襲い武器を調達し、山中でゲリラ化してゆく高校生たちを描き、将来に希望をなくした時代の若者の刹那的な挫折感が色濃く描かれている」。
一方「白い指の戯れ」は「日活ロマンポルノながら、アメリカン・ニューシネマの影響を感じさせる浮遊感と哀切を見事に描いた作品として、高い評価を受けた本作。スリの集団と刑事たちの葛藤を、村川透の都内ロケを敢行したシャープな演出と、姫田真佐久の軽快なカメラワークで捕らえた都会派の異色作品。同年、キネマ旬報を始め数々のベストテンにランキングされた、青春映画の傑作」。

 両作品ともに近年の「ポルノ」と呼ばれるほどの性描写ではない。ただ単に「ハダカ」が出て来るだけだ。それでも当時としては革新的で、大手メジャー系の一般映画にはできない実験的な要素が多分にある。
日活はメジャーな会社だが、ロマンポルノ路線になってから多くの才能を輩出した。そこに「映像」による「表現の自由・実験・反体制・反骨精神・若い才能・登龍門・挑戦・野心」の精神がある。
「技術以前」の大切な精神。映画館ではもう観られない映画をこうしてDVDで観ることができる。とてもありがたいことだ。