| 西暦 |
元号 |
年令 |
できごと |
| 1918 |
大正7 |
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田名部本町(現むつ市)で、川島徳蔵の三男として誕生。 |
| 1923 |
大正12 |
5才 |
母ヨシ37歳にて死亡。 |
| 1924 |
大正13 |
6才 |
父徳蔵、八戸の近藤きよと結婚。 |
| 7才 |
早生まれの雄三、田名部尋常小学校に入学。
幻灯機づくりが好きだったという。 |
| 1925 |
大正14 |
7才 |
身体が弱く「タコ」というニックネームをつけられる。 |
| 1927 |
昭和2 |
9才 |
阪妻の活動写真をみた記憶があるという。 |
| 1928 |
昭和3 |
10才 |
(長姉トモエ死去、行年18歳)
「パックリ」とニックネームをつけられた。 |
| 1930 |
昭和5 |
12才 |
青森県立野辺地中学校へ入学。(現野辺地高校)野辺地中学は、映画をみることを禁じていたが、椅子席のない映画館にかくれて通う。
野辺地中学校の講堂で巡回映画「イントレランス」を観る。(D・Wグリフィスの傑作)
この頃、野辺地町の三次金之亟(教練の教官)宅で下宿生活。
”タゴ”というニックネームで呼ばれる。 |
| 1931 |
昭和6 |
13才 |
柔道部に籍を置く。 
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| 1934 |
昭和9 |
16才 |
雄三は戦争ぎらい、軍隊ぎらい。
野辺地中で、映画部を創設。 |
| 1935 |
昭和10 |
17才 |
明治大学専門部文芸科へ入学。日本映画研究会に加入。
朝日新聞社会部でサツ回りをやっていた兄哲郎のところに転がり込む。 |
| 1937 |
昭和12 |
19才 |
明治大学映研の「シネ・テアトル」第七輯に「ニュアンス」と題し小津安二郎についてエッセイを執筆。
4月24日、次姉セイ死去。行年24歳。 |
| 1938 |
昭和13 |
20才 |
松竹大船撮影所採用試験に合格。
東京新聞と文芸春秋は不合格。
「島津組」に入る。「兄とその妹」
最初についた監督が深田修造。
作品は「大地の妻」 |
| 1939 |
昭和14 |
21才 |
雄三が同期の仲間から「愛染助監督」と呼ばれ、「愛染椿」「愛染かつら」の助監督をつとめる。 |
| 1940 |
昭和15 |
22才 |
最初にチーフをやったのが木下恵介の「花咲く港」 |
| 1941 |
昭和16 |
23才 |
清水宏の「花ある雑草」、原研吉・大庭秀雄作品につく。 |
| 1942 |
昭和17 |
24才 |
監督フランク=キャプラやマイルストンを好む。 |
| 1943 |
昭和18 |
25才 |
監督昇進にあたり第1回作品に織田作之助の新聞連載小説「清楚」の映画化を希望。
川島に召集令状が来る。弘前北部第十六部隊に応召、即日除隊。 |
| 1944 |
昭和19 |
26才 |
雄三松竹の映画監督に昇進。
デビュー作「還ってきた男(松竹)」発表。
5月1日封切。 |
| 1945 |
昭和20 |
27才 |
アパートが大空襲に見舞われ、リヤカーに荷物を積んで逃げる。 |
| 1946 |
昭和21 |
28才 |
4月11日封切
「ニコニコ大会追ひつ追はれつ笑う宝船(松竹)」 |
| 1947 |
昭和22 |
29才 |
大船撮影所で「泥馬クラブ」という怪組織をつくる。新聞発行。 |
| 1948 |
昭和23 |
30才 |
ローカル紙「新下北」に社説で「川島監督に期待する」を掲載。東奥日報に「日本で最年少の映画監督」と紹介、注目を浴びる。
川島がシミキン主演のスラップスティク喜劇を多く手がける。 |
| 1949 |
昭和25 |
32才 |
この頃、川島が谷村錦一氏宅によく遊びに行った。 |
| 1951 |
昭和26 |
33才 |
川島が、松竹では自分のいいたいこともいわず、ただ黙々と命令されたものを作っていた。今村昌平助監督が「何故こんなひどい映画撮るんですか」と質問、川島曰く「…生活のためです」今村が一時軽蔑。 |
| 1952 |
昭和27 |
34才 |
一作品が完成すると川島雄三は必ず行方不明となった。
2月25日封切 「相惚れトコトン同士(松竹)」
「楽しさ」「明るさ」「ウィット」「スピード」などが川島組のモットー。 |
| 1954 |
昭和29 |
36才 |
今村昌平、日活へ転籍。
川島雄三、日活へ転籍。 |
| 1955 |
昭和30 |
37才 |
川島の日活での第一回作「愛のお荷物」
飛鳥田議員国会バッジ貸す。返却せず。 |
| 1956 |
昭和31 |
38才 |
「洲崎パラダイス、赤信号(日活)」
赤信号でオナラをさせる。 |
| 1957 |
昭和32 |
39才 |
背のびしたミューズの蹠(あし)をくすぐらむ句を発表。俳号美央。
「幕末太陽伝(日活)」
「幕末太陽伝」で立小便 |
| 1958 |
昭和33 |
40才 |
藤本義一、川島の「暖簾」のシナリオ手伝いをやる。
今村昌平、日活の監督となる。 |
| 1959 |
昭和34 |
41才 |
6月1日封切「貸間あり(東宝)」
ラスト・シーンで、立小便 |
| 1960 |
昭和35 |
42才 |
雄三が京都が好きで、仕事がなくても旅行。このころ飲むと益々足が不自由になる。
父徳蔵死去。行年八十一歳。
川島監督中村八重司さんと同伴で田名部に帰省。 |
| 1961 |
昭和36 |
43才 |
よくスリーキャッスルを喫った。酔うと必ず、一番強そうな奴にからむ。 |
| 1961 |
昭和36 |
43才 |
雄三が若尾文子に女優開眼の道を開く。 |
| 1962 |
昭和37 |
44才 |
三橋達也の父が死去したとき、川島が葬式一切から火葬までつきそう。三橋がさみしがりやだからねーといって。
「雁の寺」でクミ取りを描く。
「しとやかな獣」で、便所への出入りを克明に描写。雄三が「今村昌平はえらい、あいつは貧乏がこわくないから。」という。 |
| 1963 |
昭和38 |
45才 |
11日の夜、銀座のバー「エスポワール」で水割のウィスキー3杯飲む。
川島監督、急死。芝の日活アパート9階の自室。直接の死因
「肺性心」(東京観察医務病院死体検案書)
法名 釈雄然(行年45才) |
| 1969 |
昭和44 |
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川島の弟子、今村昌平監督編になる「サヨナラだけが人生だ」(映画監督川島雄三の生涯)をノーベル書房から刊行。 |
| 1971 |
昭和46 |
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藤本義一、小説現代初夏号に「生きいそぎの記」を発表して再三直木賞候補になる。 |
| 1979 |
昭和54 |
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6月11日
映画監督川島雄三の碑除幕式(於徳玄寺)
6月17日、十七回忌法要。 |