川島雄三特集 −ゆかりのある人の話で知る−
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 川島雄三の甥にあたり、親戚の中では一番身近な存在であった川島晋一氏(雄三の長兄清次郎氏の長男・現在下北信用金庫理事長)に、雄三の思い出話・エピソードを伺った。

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川島晋一氏

●川島雄三とはどのくらい年が離れていたんですか?

 私と雄三おじは年が11違うんですが、年の差なんか関係ないんですよ。一緒に飲みに行ったときでも、「君も何だろうけど、僕に払わせてくれ」って言うんです。普通、おじと甥の間柄だとおじが払うという場合が多いと思うんですが、雄三おじは、私の人格を認めてくれてるんですね。
でも、勉強家なので困るんです。何やかにやにつけ、よく「勉強しなさい。不勉強です」と叱られてました。

img  亡くなる10日位前に、私が九州へ行く用事で東京に寄った時、おじに会ったんです。その時は「青山に墓地を買おうかな」とか、「兄貴(次兄哲郎)も世話になったから、死んだら俺もお前の世話になる。亡くなったら迎えにきてくれ。飛行機から骨をまいてくれよ」と言ってました。でも、考えてみたら飛行機には窓が無いんですよね。
それがわかったとき、二人で大笑いしましたよ。今にして思えば、墓地の話とかお骨の話しとか、自分の死期を予感してたのかもしれません。

●故郷のことをあまり話したがらなかったそうですが。

 むつに帰ってきたのは、数える程しかありません。兵隊検査と父親の徳蔵が亡くなった時の2回位です。
 でも、どこで仕入れるのか、こちらの情報はいろいろ知ってました。私と会ったときは「田名部弁で話しなさい」「金沢のタラはダメです。タラ汁にするなら下北のタラです」と言ってまして、下北からタラを送ったらとても喜んでました。
「タカジョウって何かわかりますか」と奥様の八重司さんに聞いて笑ってました。(ちなみにタカジョウとはむつ方面の方言で地下足袋の丈が長いもの)

 たまに帰ってくると、おじが昔、よく本を読んでいた土蔵に足を運んでましたが、その土蔵が昔のままになっているのを見て言ってました。
「郷愁はいいよ。でも郷愁は一瞬にすぎない。君、犠牲になることはない」私の事を心配しているんですね。地元にいて、犠牲になることはないよ、ということなんでしょう。

●映画の中に、よくトイレシーンが出てきますが。

 映画の撮影が無いときは、よく京都へ行っていたみたいですけど、宿泊場所を決めるポイントは「トイレと雨戸」だったようです。雄三おじの父親はとてもきれい好きなハイカラ人で、当時でもトイレがタイル張りでした。
勉強好きなおじのことですから、雨戸にもこだわっていたんでしょうね。

●権力に対して反発を持っていたようですが。

 戦争や軍隊が嫌いでした。
昭和18年に弘前で受けた兵隊検査で、検査官に「お前は軍隊で御国のために尽くすよりも銃後にあって映画制作で国家の為に働きなさい」と言われて、即日帰郷となったんです。おじはその晩、即日帰郷を喜んで祝盃をあげていたんですが、それを見た親父さんが物凄く怒ったんです。父親の徳蔵は若いころ天皇の親衛隊、近衛騎兵だったこともある人でしたから徹底的にやられたようです。

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●初めから監督を目指していたのでしょうか。

 映画の弁士になりたいと言ってたこともありました。
そんなに物を言う男ではなかったですが、よく本を読んで聞かせてくれました。弁士のやっているのを下手でみてられないらしいんですよ。親父さんは冗談じゃない、止めてくれといって確か5円だったと思いますが、それをやって止めたこともありました。
 絵も上手でしたよ。ひよどり越えの武者絵とか狐の嫁入りなんか書いてもらった記憶があります。

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●面倒みが良かったみたいですね。

 雄三おじは、とても優しい人でした。妹2人の面倒もよくみていたようです。気を使わない人間は嫌いでしたけど。
 でも、撮影現場を見に行きたい、というと「身内はダメです」と言って一度も見させてもらえませんでした。義母のきよが上京したときは、撮影所を見学できたようですけど。テレ屋でシャイということもあるでしょうが、身内には見せたくない何かがあったんでしょうね。
 故郷の親戚、肉親、友人が上京してもほとんど会ってないんですが、「忙しいから会えないのに、誰も理解してくれない」と言ってました。

 35年たってこんなに慕われている人もいないですよね。
 葬儀の時にビックリしたんですけど、ホテルのドアボーイとかハイヤー運転手といった方が、世話になったといって来ているんです。

●エピソードはありますか。

 私が軍隊の関係でむつから浜松まで木造町の人と二人で行くとき、東京駅と上野駅を勘違いして上野駅で途方にくれていたんです。言葉も通じないし。そしたら、「おい、晋坊じゃないのか?」と雄三おじが目の前にいたんです。
おじは当時、杉並区に朝日新聞の記者をしていた哲郎おじと住んでまして「馬鹿じゃないのか」と言いながらも品川まで送ってくれました。本当に神様のように見えました。

 よくおじには担がれました。どうしたら下北を観光地にできるか、という話しになったときに「天皇がくると、道路が舗装されて道が整備される。天皇に恐山を行幸してもらえばいいんだ」と私がいうと、
「赤坂に70歳過ぎの天皇の散髪屋がいる。そこへ行けば、どうすれば天皇陛下を恐山にお連れできるか聞ける。」と言われて、私は信じ込んでしまったんです。

当時、普通の床屋は270円なのにその床屋は3000円でして、私は貧乏だったんですが、行ってきましたよ。その話を聞いたおじは笑ってましたが、「お前の好きなセリフを映画に入れておいたから」というんです。「天守様が来ると道が良くなる」と私がいった言葉が、「とんかつ一代」かなんかのセリフになったみたいです。

とんかつ一代
「とんかつ一代」
 死んでからサイン会を開いたのも雄三おじくらいじゃないですか。一周忌の時でしたが、直筆からゴム印作ってサイン会したんです。その時、雄三おじの生首を作って頭から秋田のお酒の太平山をかけて供養する、といったこともやりました。

●川島監督というと、いつも背広を着ていてダンディという印象を受けるんですが。

img  とにかくお洒落でした。背広を取り替えるとき、時計の皮まで色替えるんです。タバコは洋モクが好きでしたし、カメラも50〜70台持ってました。蔵書もたくさんありましたね。私が週刊誌をほとんど買わないのはおじの影響だと思いますよ。「一流は安い」と言っていたのが印象にのこっています。

●身体の事について何か言ってましたか。

 いつ足が悪くなったのかわからないですね。中学時代は柔道もやってましたし。
「ハタチ過ぎて小児マヒになるのは、頭のいい証拠。俺とルーズベルトくらいだ。」と言ってたらしいです。

●日本映画初!

 日本映画初のキスシーンを撮ったのは雄三おじじゃないかな。タイトルは忘れてしまったけど。(日本で初の接吻映画は大映の千葉泰樹監督「或る夜の接吻」または大船の佐々木康監督「はたちの青春」と言われているが、この2本は昭和21年5月封切りである。川島雄三監督「追ひつ追はれつ」は1月封切り。この作品で幾野道子と森川信のキスシーンがある。)

●ビワは生意気?

 物の見方、表現が私達とは違ってました。ビワの木があったとすると、私達はおいしそうだとか食べたい、という発想ですよね。雄三おじに言わせると「ビワは種ばかり大きくて生意気な果物です」となるんですよ。
それから家の側に円通寺というお寺があってカラスがたくさん集まるんです。「カラスは公害だ、人に迷惑をかけるから」と私が言うと、おじ曰く、「カラスは(黒い)礼服を着て毅然としていますよ」となるんですね。

 藤本(義一)さんに聞いた話しですけど、撮影所の広告で人を募集していて、依頼者の所に「股火鉢ノ川島」と書いていたそうなんです。変わっているなと思って門をたたいたそうです。その時雄三おじは「君は何になるの?クズモノやさん(※1)」と聞いたらしいですね。

※1 藤本義一氏はシナリオ・ライターを希望していたが、脚本家が原稿を失敗するとその原稿をゴミ箱に捨てる様子をたとえたと思われる。

●テレビのことについて話しをされたことがありますか。

 晩年、テレビのことをおじに聞いたことがあったんですけど、「テレビはやらない。座業に入る」と言ってました。その時は座業という言葉が何のことかわからなかったんですが、また聞き返すと「不勉強です」と言われるので敢えて聞かなかったんです。物書き、脚本家ということだと思いますね。文章にはかなり自信をもっていたようです。織田作(織田作之助)さんとも近しかったですしね。

 故郷を愛していたけど、表には出さない人なんです。言葉でも、食べるものでも。水上勉さんが飢餓海峡を作った時も、「おい、恐山をいい加減に書くなよ。嘘書いたって、俺の地元なんだからすぐわかるんだからな」と言ってたらしいです。三浦哲郎の「忍ぶ川」をやって三浦を盛り立ててあげたいとも話してましたし。

 今、マンガの影響(集英社 ヤングジャンプに掲載)もあって、若い人に人気があるようですね。
 幕末太陽伝の続編もやりたがっていました。
もう、頭の中では構想が出来上がっていたようですし。
あと、2、3本は撮らせてやりたかったですね。


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