| 「生きたい」は「午後の遺言状」のつづきのつもりで作った。「午後の遺言状」では、生きているかぎりは生きたい、という思いを、うちに秘めて生きてゆくことにしたが「生きたい」では、積極的に生きたい思いをうったえてゆくことにした。 わたしは八十の坂を越えて、老人というものを内がわから見ることができた。四十、五十、六十でも、老人像を描いてきたが、まだ老人になっていないので、従来の老人像に焦点をおいて、いわば風景的といってもいいほどの視線で、外がわから描いた。 それは当然なことで、老人になっていないのに老人を描くのだから、外がわから眺めるほかはない。年をとれば一定の諦観の境地に達し、心は平穏、欲望もエゴもおさまり、平和を愛する心、というふうな老人像を描いていた。 ところが、わたしが老人そのものになってみると、まったくそれとは逆で、満たされなかった過去への悔恨、傷つけられた人たちへの怨念、生きてきたながい足跡を正当に評価されていないという不満、一歩一歩死へ近づいていることへの不安と焦燥、平穏な心どころか渦巻く妄執でただごとではないのだ。すべての人がそうだとはいわないが、おだやかなわたしがそうだから、賛成者がたぶんいるのではあるまいか。既成の道徳観にとらわれている人は、心でそんなことを思っていても、口に出すのははしたないから沈黙を守ろう、と思っている人もいるかと思うので、わたしが代表して真の老人像をさらけ出してみよう、と試みた。 だから、三園連太郎演ずる安吉の役は、わたしなのである。 人はすべて仕事をしてきたのだ。青年に達して親の下をはなれると、仕事を始め、仕事で生活し、妻をめとり、家庭をつくり、仕事を通じて社会の一員となり、国家の国民となる。家庭をいとなむとは社会を支えることであり、ひいては国の底辺を支えることになる。とすれば、すべての老人は国を支えてきた愛国者である。 老人とは、そういう過去を持った人なのだから、力が衰えてくれば、社会も国家も、尊敬の念で老人に接しなければならないのだ。 だが、現実は決してそうではない。老人になれば、過去の老人の歴史に目を向けないで、老人になった現実だけに目を向け、植物に近づいてきたと思ったりする。 ドラマライターは人間を描いてドラマにしてきた。人間をぬきにしてはドラマは成りたたない。しかし、八十を越えてなおドラマを書きたいというドラマライターが少ないから、老人のドラマはほとんどない。老人性痴呆症になった人が、自分のウンコを食べたりする老人を書いた人はいるが、それは、植物的になって、人間性を失った現象だけを見て、老人の過去を見ようとしないから、老人という人間を見たことにはならない。 この「生きたい」のドラマの構成についてすこしばかり述べたい。 長野県更埴市の「姥捨駅」で下りると、すぐ間近に「姥捨山」を仰ぐことができる。いまは観光に役立っているが、昔はこの山へ老人を捨てたのだ。ウソかマコトかそういう民話が残っている。古今和歌集に、この山のことを詠んだものが残っている「わが心なぐさめかねつ更科や おばすて山に照月を見て」とある。 千年まえは老人を山へ捨てたのだ。だからこう詠まれたのである。文明も文化もなかった時代、人びとは原初的な生活をいとなみ、一つの地域社会は掟をつくって子孫繁栄を貫いてきた。一つの生命が生まれれば一つの老いたる命が淘汰された。そうして生きつないできた。捨てられる老人は、新しい生命に生まれ変わると信じ、明るい気もちで山へのぽって行った。 現代はどうか、われわれは高度な文明と文化に恵まれている。それなのに、老人問題にとまどっている。急速に老人がふえてきた。医術の進歩と環境の整備だ。二十一世妃の後半には三人に一人が老人だといっている。人類は有史以来の大問題に直面しているのだ。国は抜本的に老人問題について考え直さねばならないだろう。古代と現代を比較しながらドラマは進行する。当然現代から古代をふり返って見ることになる。古代のオコマは、決然とお山参りを決行するが、現代の安吉はこの世に未練がありすぎて、現代のお山である老人ホームに行く気になれない。妻の死後孤独に堪えかねてスナックのママさんと愛人関係を結んだが、失禁をするようになって離縁状を突きつけられた。それがなんとも無念だ。大学を出て化学者になり一流会社に就職したが、停年退職して細ばそと年金生活、わが人生をふり返ってあまりの不甲斐なさがなんとも無念、このまま死んでは死にきれぬと思うが、もはや取り返しがつかないことを思いしらされる。その苛立ち。 娘の徳子は、そうしたオヤジが可哀想で見ていられない、と思ううちについつい婚期を逸してしまった。それが元でソーウツ症になったと思っている。人間はすべてソーウツ的であるというのはわたしの説。世俗の毒と妥協できるものはソーウツ的にならないが、俗臭と妥協できないものはソーウツとなる。つまりソーウツ症は純粋ゆえのソーウツなのである。 こうした人間の原点をむきだしにしたような親と子が、古代の姥捨山の人びとと対話することで、老人問題に、いや人間の問題にとり組んでゆくのだ。 千年まえの人と現代人が対話をすることはできないが、映像という武器を使えば、自由自在に対話ができるのだ。そのフィルムの魔術を見てもらいたい。魔術といってもカントクは魔法使いではないから、古代と現代をただカットバックするだけだ。 スナックに集まる人たちは、それぞれの世代を代表している。大学生と女高校生は現代の若ものを、パイプの紳士は団塊を、丸坊主のトラックの運転手は大衆を、ママさんは社会の目を、それに安吉が加わって現代社会の縮図を意図した。 安吉が、「わしはただで御国のために戦争へ行ったんだ」と叫べば、大学生は「戦争なんかするヤツはバカだ」と切り捨てる。かみあわない。大衆を代表する運転手が大学生の胸ぐらをとって「おまえなんかに灰で縄をなえるか」と鬱憤の叫びをあげるが空ぶりだ。団塊氏はいまはかみあわない時代だから何をいっても仕方がないとパイプをくゆらす。安吉は戦争から祖国へ帰ったあの日を思い出して「かえり船」を歌うが、すでに失禁している。こんとんとしてすれちがいの時代だ。 徳子は、純粋なるがゆえに、心に思ったことがそのままコトバとなって口からとぴだすのだ。要心ぶかい現代人は、一言いうにもコトパを選んで慎重だが、徳子は何らコロモをかぶせないでそのまま声にする。純粋だから。 カラスがドラマに参加してくる。古代では人間と小動物は同居してきた。鹿や猪は貴重な食糧だから作物を荒しても黙認した。カラスは死者の肉を食らうから葬儀屋と考えた。だからカラスは、今年はだれがお山参りに行くかをよく知っていた。 カラスを撮影していて納得するものがあった。口の中がまっ赤だ。血のような鮮やかな色をして いた。 |
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